【編集人コラム】夏と言えば秩父リングスターフィールドを思い出す…

今年の夏は全国的に酷暑と呼ばれる。
私は転落事故の後遺症のメンテナンスで、当時入院していた京都の病院へ
20年ぶりに入院するなど、今後のむけての回復に努めているが
毎日、39度を超える暑さはそうそう体験できるものではない。
東へ西へ、往復を繰り返すという日々の中、東京に戻ると、その涼しさに驚いてしまう。
それほど、京都は暑いのだ。

さて、まだまだリハビリを続けながら過ごす熱帯夜に、これを書いている。
女子プロレスの夏と言えばいろいろ連想されるが、私が一番のインパクトだと
思えるのが秩父リングスターフィールドでの夏合宿である。

秩父リングスターフィールド(以下RFと略)。
全女の終焉とともに幕を閉じたこの施設、その存在を知らない人も増えてきた
ことであろう。1987年8月1日に開場し、初お披露目した際には
ステージにリングを置いての試合やライブも行なわれた。
リングの目前にはプールがあることで、当然試合は転落する選手が続出。
さらにプール内でも試合は続いた。
1990年にFMWが初の水上マッチと謳ったが、じつは全女のほうが
3年早く実現していたということか。ちなみにオープン時はまだ
「女子プロレスタウン」という呼称だったという。

埼玉県秩父市の山奥にあるこのRF。
大げさな表現ではなく、本当に山の奥という言い方しかできない立地条件にあった。
秩父の山をどんどん進み、木々に囲まれた道なき道を登っていくと、
突然視界が広がり、ログハウス調の建物が目の前にそびえたつ。
松永高司会長によれば、山の中を切り開いて作ったそうで、
そう聞くと、確かに納得できる。
言われてみれば、こんなところに平らな地面があること自体
不自然極まりない。それと、周りが本当に山に囲まれているので、
どことなく圧迫感を感じることもあった。
埼玉西武ライオンズの西武ライオンズ球場がなにもない砂丘を
掘ってつくったという話を聞いたことがあるが、
それともまた違う、山を切り開くと言う発想自体が松永家らしい。

ログハウスでは宿泊も可能で、一般の人が申し込むこともできた。
ただ、きちんとした宿泊免許を取っていなかったそうで、
全女のパンフレットで小さく広告を載せているくらいであった。
だから、通常泊まりに訪れる客はほぼ皆無だったという。

この写真にある1987年といえば、年間200を超える試合スケジュールで、
試合以外のまとまったオフ日などほとんどない状況だったが、
夏休み期間は数日必ず設けてあり、その期間にこの夏合宿が
行なわれていた。また、その時期以外でも強化合宿が開かれ、
コーチとして極真空手の山崎照朝氏が招かれる本格的なもの。

新人選手たちはこれを“恐怖の合宿”と呼んでいた。
と言うのも、相撲で言うところの股割りを新人は受けることが慣例で
泣き叫ぶ選手が続出。それでも山崎氏は構わず体重をかけ、
さらにその上にボブ矢沢氏(コーチ兼レフェリー)も覆いかぶさるという
逃げ場のない状況ができていた。ただ、山崎氏によればこれを行なうことで
柔軟な体を手に入れることができ、ケガのリスクが抜群に減ると言う。
よく立野記代が試合前にリング上で股割り(足を前後する形だが)をしていた
のも、この経験があるからこそ。

選手の合宿以外には、RFのすぐそばにあるいちご狩り施設へ
行くイチゴ狩りツアーなどのファンイベントも定期的に行われていた。
また、ユニバーサルや学生プロレスの選手たちが合宿を定期的に
行なっていたほか、北尾浩司もトレーニング場として使用したこともある。
こういった選手たちが使用する際は、一番下の新人やデビュー前の練習生
が同行し、ケアするのも大事な役目だった。

かつては引退したミゼットレスラーたちが管理人として
この施設に住み、鶏の世話などをしていたが、
90年後半にはだれも住む人がいなくて空き家状態となり、
その後は、松永兄妹であり、元選手でも
あった吉葉礼子さんとそのご主人が週に一度、草むしりを兼ねて
管理に訪れていた。吉葉礼子さんは松永会長が業界に入ることになった
きっかけの選手で、女子プロレス黎明期からの存在。私はこの秩父で
何度となく取材をしようと当時の話を振ったが「もう昔のことは忘れたわよ」
「今の選手に聞いてあげなさい」「年取るとねえ、思い出せなくて」
と、半分照れくさそうにいつも言われ、ついぞ現役時代の話を聞くことができなかった。

RFは全女の解散とともに閉鎖。
その後は立ち入り禁止となり、RFへ登る道の途中で
鎖が付けられた。私は解散後、一度だけ松永国松氏、氏家清春氏とともに
同所へ訪れたことがある。その時点でも老朽化は著しく、あれだけオシャレだった
ログハウスも変色がかっていた。
この時のエピソードや写真もいずれ公開したいと思う。